“木の良さ”をどのように伝え継ぐか
~木と共に歩むこれからの120年~

2025.11.20小売業期 

”木の良さ”をどのように伝え継ぐか~木と共に歩むこれからの120年~

創業120周年を記念して1年間にわたり連載してきた本コラムも、いよいよ最終回となりました。
締めくくりとしてお話を伺ったのは、木の専門家である埼玉大学の浅田茂裕教授です。
浅田教授は、木質科学や木材教育学の研究者として知られ、木の床とそうでない床での着座率の違いなど、人と木の関係を科学的に探る一方、NPO法人「木育・木づかいネット」の代表として、木の活用や普及活動にも取り組まれています。

そんな浅田教授が語ったのは、「木は平和の象徴である」という意外な視点――。
家の材料としてだけでなく、かつては軍事資源としても利用されてきた木材の歴史を振り返りながら、材木商として創業した桝徳が未来へ受け継いでいく“木の良さ”について、お話をうかがいました。

次章より、浅田先生のインタビューを詳しくご紹介します。

激動の時代を生き抜いた桝徳の120年

創業記念の節目にあたり、桝徳さんの歴史を木材と時代背景の両面から振り返ってみると、創業の明治38年は、ちょうど日露戦争が終わった直後の時期にあたります。
日本が農業国から工業国へと転換していく、大きな分岐点に立っていた時代でした。

戦争によって国が沸き立ち、大正という新しい時代を迎える中で、文化も大きく広がっていく。そのただ中で創業し、激動の時代を生き抜いてきた企業だと言えます。

材木商として創業されたと聞いていますが、当時は産業が上向く一方で、日本の歴史の中でも森林資源が最も乏しかった時期の1つです。そんな中で、良い材木を供給し続けるという事業には、さまざまなご苦労があったのではないかと思います。

また、節目という意味では、2025年は「昭和100年」にあたる年です。
昭和は大きな戦争が起こり、森林資源が軍事的にも統制され、今のように自由に扱うことができなかった時代でもありました。

戦後を迎えると、町を復興する中で木材産業は重要な役割を果たしていきます。復興の証である木造建築は、再生の象徴であると同時に、ある意味では平和の象徴ともなったことでしょう。

一方、戦後の復興期には森林荒廃がひどく、国内の木材資源は乏しい状況が続きます。苦肉の策として海外からの資源輸入が始まりました。やがて安価で質の高い木材が自由に入ってくるようになると、国産材だけでの商いは難しい時代が訪れます。
それでも日本の木材を今日まで供給できるようにつないできたのは、木材流通に関わる事業者の努力があったからだと思います。

振り返ると、かつて木材の地位が著しく低下し、学校などの建築物に木を使おうという発想が失われた時期もありました。官民を挙げて木材離れを後押ししてしまった時代もあったのです。

桝徳の120年とは、そうした木材の隆盛や社会的変化の中にあっても、「木材を使う」という文化を絶やさずつないできた歴史なのかもしれません。

戦のための木から、暮らしの木へ―木材が語る時代の記憶

軍事資源として政治に利用されてきた木材

木材といえば、家や家具の材料という印象が一般的ですが、それはごく最近のことで、歴史的にみると、木は長く軍事資源として利用されてきました。

縄文時代、人々は狩猟・採集を中心とした生活を送り、自然循環に沿った暮らしをしていました。この時期は世界的に見ても稀有な平和が続いた時代として再評価されています。
ところが弥生時代に入り農業が始まると、土地の占有が進み、森林を伐採して耕作地を広げる過程で、争いが生まれるようになります。
自分たちを守り、あるいは攻めるために―木は、極めて重要な軍事物資となっていったのです。そしてそれは近代まで続きます。

とりわけ戦国時代以降、戦争の規模が拡大するにつれ、森林は軍事資源としての意味合いを強めていきます。政治的に管理されるようになり、木を伐採するのが禁止されたり、森林に入ることさえ制限されるようになります。それは明治時代や昭和の時代になっても変わらず、森林や木は軍事物資として強く統制され続けたのです。

長篠合戦図屏風
出典:Wikimedia Commons(Public Domain)
長篠合戦図屏風(長浜市立長浜城歴史博物館蔵):木製の櫓、攻城用の梯子、木の盾など、木材が戦に利用されていたことがわかります。

もちろん、私たちの歴史の中で、木材資源は法隆寺や東大寺、姫路城など、時代ごとに素晴らしい木造建築、木の文化などの価値を生み出してきました。しかしそれらは権力者が資源を掌握し、森を伐採して、木材を結集させたからこそできたものであるということは、心に留め置くべきことだと思っています。

官から民へ―木材利用の転換点

現在のように、一人ひとりが家を持ち、土地を所有して自由に資産を形成する時代へと変わる中で、木材利用の在り方は大きく転換しました。

わかりやすい例としては、バブル期が挙げられます。戦後しばらくは、木材も住宅も物資が不足し、「質より量」が求められる時代が続きましたが、大量生産システムが確立するとともに、個人所得の増加、生活の平準化が実現していく中で、消費需要にも変化が生じます。
また企業による価値主導のマーケティングスタイルが浸透し、木材利用においても、少しずつ自分の主張や個性を反映させるために木材を選ぶという意識が生まれます。バブル期の前後は、木材利用スタイルを大きく変化させた象徴的な時期だったかもしれません。

それは、歴史的に軍事物資として常に国家に管理されていた木材資源が、個人の意思や価値観によって求められ、そのニーズに応えて供給できるようになった。木材を積極的に活用しようというスローガンは、長い歴史の中でも、世界的に見ても極めて異例の状況です。
“官から民へ”の転換、そして戦争から平和への移行を、現在の木材利用は象徴しているのかもしれません。

木材不足でも途絶えなかった「木材信仰」

戦後、森林が荒廃して木材がない状態となり、国民的な植林運動が行われる一方で、木材利用を制限するような運動もありました。戦後復興だけでなく伊勢湾台風などの災害対策としての意味もありましたが、中大規模の木造建築が建築されなくなり、鉄とコンクリートが「進歩」や「近代化」の象徴とされ、木材は「古い」「貧しい」イメージと結びつけられたそうです。結果的に、建築教育や行政指針でも木材利用の軽視、木造建築の忌避が進みました。

戦後の食糧難の時期、米が少なく、アメリカから多くの小麦粉を輸入しました。その際に小麦消費を進めるために、学校給食にパンが提供され、「パン食こそ新しい生活様式だ」という官民挙げてのプロパガンダが進められましたが、復興期、深刻な木材不足に陥っていた木材に対する政策もよく似た構造です。
「RCこそ、新しい時代だ」という主張が出てきた時期は、ちょうど我が国における材料革命、つまり石油化学製品による大量消費社会の始まりとも一致します。いかに新しいものを取り入れるかという風潮が、徐々に木材と私たち日本人の関係性に変化を生み出したと考えられます。木材離れの始まりです。

都市の景観、建築教育、木材産業、林業構造、そして消費者の意識にまで木材離れの影響が及び、戦後日本の建築様式と資源利用それぞれの方向性を大きく変えたといえます。白い壁、フラットな屋根、アルミサッシ、コンクリート基礎。洋風・モダンというべき外観をもつ住宅、規格化された住宅への憧れが強まり、日本の伝統的な暮らし、住まいへの関心、木の文化的価値はおよそ50年にわたって低下していくことになります。

しかし、そんな中でも“ 木の家がいい “ということは、日本人の心、社会の中で信じ続けられてきました。機能性・清潔感・耐火性など住まいの性能に対するニーズは、共働き世帯の増加などとともに高まっていきますが、木材への憧れ、信頼感は一定程度維持されてきたと思います。

私は研究、実践のテーマとして「木育」に取り組んでいるのですが、子育て世代のお母さん、お父さんと話す機会があります。多くの人は、“木のおもちゃはいい”と無条件に信じています。私の知る限り、木のおもちゃが他の素材のおもちゃよりも優位であるという科学的根拠はありません。しかし誰もが、疑うことなく”いい”と言っているのです。私はこれを密かに「木材教」と呼んでいます。

木育・木づかいネットHP
出典:木育・木づかいネットHP

なぜ日本人がそうした“思想”を今も持ち続けているかについて、とても興味があります。わかりやすい仮説としては、日本の温暖で湿潤な気候の中で、ヨーロッパの石、中東のレンガなど熱伝導率の高い素材を住宅に使うと、結露したりカビやダニの発生を招く恐れがあります。日本人は経験的に、伝統的に木の良さ、木材の価値を理解していたことが根底にあるのでしょう。

ただ、約50年にわたって木材が軽視される時代があった中でも、それが継承されている理由がわかりません。気候と嗜好とがかみ合わない状況が続いてきた中で、木の良さや快適性は伝承され続けてきました。それを支持してきた人、信じ続けてきた人があって、現在の木材再評価時代が到来したとも言えるでしょう。

今では環境問題への関心の高まりとともに、木材が再び注目されるようになりました。
今年開催された大阪万博では、大屋根リングが大きな話題となり、その保存が大きな議論を呼びました。公的資金が活用されたこともあるでしょうが、ほんの20年前には考えられなかった変化です。木材信仰がもたらした象徴的な出来事と言えるかもしれません。

広がる「木育」、まだ届かない“木の暮らし”

私が代表を務めるNPO法人「木育・木づかいネット」では、「木育」という言葉をキーワードに、幼児期から森林や木材との関わりを深める活動を行っていますが、「木育」という言葉のメディア露出は、5年前と比べると10倍以上。それがまだまだ、留まるところを知らない状態で、“木は大切だ”という発想がさらに広がっていることを感じています。

しかし一方で、その広がりが木材需要の必要性や、森林資源を活用するまでには至っていないとも感じています。木材=木のおもちゃのように図式化され、「木のおもちゃを使うことは子どもの育ちに必要」という認識は広がっていても、そこにフォーカスされすぎていて、「暮らしの中で木を利用することが必要」というところまで十分に伝わっていない。

木は、私たちの国土や暮らしに深くかかわっていて、木に触れて、その価値を知るということは、日本を理解することだと思っていますが、そういうところまで行っていないのが現状です。それは、6歳以降、学校教育での木育の場が確立されていなかったり、木に触れる活動というところで終わってしまっていることが一因であると思っています。木育は5歳以下の幼児の教育までと捉えられているとしたら、とても残念なことです。

“木の良さ”を継承し続けてきた材木商

木について語るとき、一般的には「木の良さ」や「木の魅力」といった視点から話が始まりますが、「木材の歴史」とか、「木材とダイバーシティ」とかそういう視点の話であっても興味深いと思います。今回の話であれば「木材と平和」ですよね。

桝徳さんの創業120周年を題材にして、戦争のことを考えることもできます。資料が残っていればの話ですが、時代別に取り扱っていた木材の種類を挙げるだけでも、その時代背景が見えてくると思います。そこから、日本が環境や文化に対して与えた影響とかを丁寧に分析していくと社会科の資料としても扱えるものになってくる。そういうものが木育だと思っています。

そもそも、私たちが子供の時代には、木に対する教育はありませんでした。それでも「木っていいよね」という価値観は、脈々と受け継がれてきた。
それは、経験的に学んできたことであり、感覚的に木っていうものに対する価値を、日本人は高く評価してきたことであると思います。

もちろん、先ほど述べたように、木から離れた時代もありました。それでも、「木はいいよね」と言い続け、語り継いできた人たちがいた。その存在があったからこそ、今日まで木の文化が途絶えることなく受け継がれてきたのだと思います。主張し続けてきた人たちがいたと思います。

その代表的な存在が、今も全国で活動を続ける材木商の人たちです。
時代の変化に抗(あらが)いきれなかった人々もいたかもしれませんが、その中で活路を見いだし、事業を続けてこられた背景には、「木は良いものだ」という強い信念があったのではと想像します。

木材の運搬を行う流通業者
木材の運搬を行う流通業者

桝徳の役割―平和と木の文化を支える材木商として

歴史を振り返り眺めてみると、資源である木材・森林は常に争いのもとになってきたことがわかります。狩猟社会から農耕社会に移行し始め、土地を所有するという概念が出てきてからは、「森林をどのように扱うか」というのは、政治的な問題として扱われてきました。

しかし現在は、比較的自由に木材を扱うことができ、「木材と共に暮らせる」社会であるわけです。前述したように、「木育」という言葉が生まれたこと自体が、いかに私たちの社会が平和であるかを示していると言えるでしょう。

もちろん、違法伐採や森林破壊など依然として森林をめぐる諍いは今も存在します。そうした多くの課題解決を考える上でも、木材を扱う人、材木商というのは、多かれ少なかれ、社会の平和、秩序を支え、平和や文化を作り出すべき存在であると思います。合法であること、持続的であること、公平であること。私たちが目指すべき社会に向けて、木材産業は多くの貢献が可能です。

桝徳さんの歩んできた120年という年月。幾たびもの戦争を経て、社会、文化、平和を支え続けた歴史でもあります。木の良さ、木材利用の意義だけでなく、桝徳さんの積み重ねた経験を強く伝え、社会に根ざしていって欲しいと思っています。

浅田茂裕(埼玉大学 教授)
Profile
浅田茂裕(埼玉大学 教授)

1966年熊本県生まれ。
鹿児島大学を経て九州大学大学院にて博士(農学)を取得。
現在、埼玉大学教育学部教授。専門は木質科学、木材教育学。木を使った学校校舎、子育て支援施設などの快適性や、木材が子どもの学び、育ちに与える影響について科学、心理学などの手法で研究を進める。
木質化された子育て支援施設や木を使った遊具、玩具、教材の開発、プロデュース、学校における木育プログラムの実践などを手がける。
木育の第一人者。